「初心者は家は白いご飯と考えろ」説に次ぐ第二弾、
今日は上級者向けのインテリアの話。
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おはようございます!
インテリアコーディネーターもやってる
脱力系ライフオーガナイザー
徳島お片付けラボ
エクリュプラス竹内真理です。
私は片付けのプロ歴10年の中堅どころだけども
インテリアマニア歴はもう30年以上になる。
インテリアが好きすぎて、
インテリアの情報しか集めて来なかったから
ファッション情報にかなり疎いという弊害はさておき、
そんな私が見る昨今の「スッキリ片付け至上主義」が
もうね、
面白く無くて面白く無くて・・・・
と、開始早々
既に毒舌、ご容赦ください。
■「スッキリ片付け至上主義」はプラスチックの味がする

令和を代表する日本の住文化。
インテリアに対する美意識も、
世代間によって違う事は私も知ってる。
ちなみに私よりも上の世代は、「飾ってナンボ」みたいな価値観だった。
応接間と言われる部屋にある出窓には
陶器の西洋風人形やら造花やら手作りのアートやら、ガラスの花瓶やらが置かれ、
カーテンも何重にもドレープがあるゴウジャスの極み。
壁はもちろん、ソファも、クッションも、ラグも、
花柄とか凝ったデザインの集合体で、
でもなぜかそれでイケテルわけ。
分かりやすいところで言えば、
千と千尋の神隠しに出てくる、湯婆婆の部屋がステキとされていた時代が
シンジラレナイかもしれないけど、確実にほんの50年くらい前には存在したんだ。
もちろん、それも一時的な流行であり、
あくまでそれは
「お客様に見せるハレの場のインテリア」ではあったんだけどね。
普段家族で過ごす「居間」は、また別のレトロ感があったはずで
そっちはまた別の世界観で、それぞれの美的感覚でまとめられていたと思う。
■そこに愛はあるんか
おそらく、その時代ばその時代で、
「日本的なものはダサい。西洋風おしゃれ」みたいな価値観はあったと思う。
そして、それはやはり、数十年でこんなに変わってしまった。
だから、私が「白いご飯HOUSE」を推奨するのも、
あくまで今考えうる
失敗を最低限にして家という資源を最大活用するための一つの提案
にしか過ぎないんだけども
私が色とりどりのゴチャゴチャしたデザインを否定しているわけじゃない事をご了承いただきたい。
実は湯婆婆の部屋もアリだとおもっているし
そもそも
私の好きなインテリア写真は、だいたい
モノがごちゃごちゃ出ているような、
その人の世界観が溢れているような世界観にワクワくしているんだなーって思う。
それもまた「世代」的感覚かもしれんけどね。
■自分のストーリーをインテリアに込める
ただし、
なんでもかんでもごちゃごちゃとモノを出して素敵に見えるはずもなく
そこには実は超高度な法則があると思っていて。
上級者編ならば、色の制限とかではないんよ。
たくさんの色があっても、なぜか素敵に見える部屋はたくさんある。
何がポイントかというと、
やはり「モノ」一つ一つに愛着ハンパない…と言う事かと思うな。
昔大好きなインテリアの達人の人のコラムをみていて
「自分の好きなモノを集めたら、自然とステキなインテリアになる」というのがあって
よくおしゃれさんが「好きな服を好きなように着ればいいんだよ」と言うのとリンクするんだけど
そんなん、シロウトには無理なんじゃーーーーーって、思うよね。
シロウトにはそう思うんだけど、
究極、
すきなものを好きなように身の回りにおけば、
自然と上手くいく・・・というのは、たぶん真実なんだ。
それは「安かったから」とかで買うようなモノではダメで、
どうしても欲しかった、とか
ずっと手放せずに大事にしている、とか
大事な人からもらった、などの
ストーリーが強烈にあるものが集まってくれば
それが上級者の暮らしの中にある空気感になるんだろうなと思う。
出しっぱなしでも、
散かっていても、
それが私達がちゃんと「生きて活動している」事の証。
動いている人生を表しているんだ。
それは未完成だからこそ美しい。
「スッキリ片づける」事は時には大事な事ではあるが、
そればかりを追求し、「散らかすな」と言う事は
「今、生きて活動する」という事を蔑ろにしているともとれるよね。
もっとおおらかにいこう。
心の底から
自分の好きなモノっはこれだって
言える感性を取り戻そうよ。
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