完璧主義や自己否定は全て「他者との比較」から生じるものだ。
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おはようございます!
脱力系ライフオーガナイザー
徳島お片付けラボ
エクリュプラス竹内真理です。
もし世界に自分一人しか存在しなければ
自己否定なんて感情があるはずがない。
でも実際は一人では生きられないのだから
私達はどう足掻いても
比較からなる「自己否定」から脱出する事は不可能なんだろうか。
ありのままの自分を認めて、心穏やかに幸せに暮らすためにはどうすればいいのだろううか。
わたしなりに考えた結果、二つの考え方が対策として浮かんだ。
今日はそんな話。
■「役割の違い」と捉える
今まで、私は、人の個性を「うに」のとげのようなものだと考えるようにしていて
その個性はとげの数ほど様々な分野があり
それは個体によって、長いものもあれば、短いものもあるというイメージ。
たとえ「片付け能力」というとげが人より短くても
「スタイルの良さ」というとげが人より長いとか
「数学的頭脳」のとげが長いとかあるだろう。
そう考えると、何がよくて何がわるいとかの優劣は
とげ一本一本ではあっても
トータルでの
人との優劣を競う事のあほらしさがわかると思う。
しのごのいわずに
自分は自分の中の長いとげを使って、
他人の役に立てばいいのだ。
そうすれば、自分の居場所は確保できるし
自分の存在意義や自己肯定感も低くせずに済む。
みんなどこかは短いとげも持っているんだ。
恥ずかしいことなんて、何もない。
■「課題の違い」と捉える
しかし、上記の考え方だと「長いとげ」を持たない人はどうするのだ問題が発生する。
片付けも、料理も、子育ても苦手で
仕事も出来ないポンコツな自分は
生きている意味があるんだろうか
とか
障害や年齢などの様々な要因によって、
他人の役に立てない状況に陥った人は、社会のお荷物なのか?
という考えは多くの人がうっすらと心に抱えている闇だ。
「人は生きているだけで価値があり、存在意義のない人なんていない」と頭では考えようとするが、
そう思えない時もあるのが人間というものじゃないかと思う。
「人の役に立たねば存在意義が無い」という前述の理論はある意味
想像以上に残酷で
突き詰めれば、多少自分のある一本のとげが人より長くても、
もっと長い人が存在したら、もう既にその武器では戦えない
という事になる。
だから、「比較」することをやめろと言われても
それは簡単じゃない。
この状態で、「ありのままの自分を認めよう」としても
「自分は無価値です。はい終わり。」となって自暴自棄に陥るしかなくなるんだ。
だから、私は思ったの。
自分のアカン部分ってのは、
生まれる時に自分で自分に課した「課題」なんだと。
片付けが苦手だとか
頭が悪いとか
ブサイクだとか、デブだとか
貧乏だとか
収納スペースが少なすぎる家に住んでいるとか
親が毒親だとか
会社がブラック企業だとか
縁あって結ばれたダンナの性格が最悪だとか
そんな
全てのアナタが思う「アカン部分」「欠点」「不遇な環境」は、
あなたの背負って生まれてきた時に自分に課した「課題」。
こなすべき宿題。
筋トレの時のウエイトなんだ。
自分を鍛えるための。
過酷な課題を持って生まれてくる魂ほど、
多く学ぶ経験を得たいという意思を持っているのだと
だれかがどこかで書いていたのを読んだ時に
「そうなんだろうな」とストンと腑に落ちてから、
わたしはそう思うようになった。
だから
自分よりも劣っているように見える人は
重石を背負って、武器を持たず、素手で戦う訓練をしている修行僧みたいな
難しい課題をこなして成長しているのだと言える。
ハンデを背負った人を哀れんだり、バカにしたり
逆に恵まれている自分と相手を比較して
罪悪感を抱くなんて的外れも甚だしく、
それぞれが全く違う課題を
それぞれの成長のためにこなしているだけなんだと思えば
自分は自分の手にしている武器を使って
自分の課題にひたすら集中することしかない事がわかる。
自己否定や他人との比較など
している暇はないのだ。
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